生きる

 さいきん、できるかぎり一日一本映画を見るようにしています。
 いま一ヶ月位経ちましたかね、40本くらい見ました。
 色々発見もあるし、考えることも多いいので面白いです。絵本もそうなんだけど映画もいろんな国のいろんな時代の創作を手軽に見れるという点が面白い。
 あと現実の人間が写っているっていう事自体が興味深いなと思います。
 人間の撮り方も色々なんですよね、動き方も色々あるし。
 しばらくは映画を見て楽しんでいけそうです、勿論アニメも見ていますけど。
 そんな中、映画のことも書いた方がいいよというアドバイスを頂いたので今日は少し映画の感想。
 


 黒澤明さんの「生きる」という映画を見ました。
 とても有名な映画ですね、ぼくは初めて見ました。
 面白かったです。
 この映画は一枚の写真から始まります。
 それは、これから死ぬ男の癌に侵された胃のレントゲン写真。
 そしてもう一枚の写真が出てきます、それはその男の葬式で飾られている遺影。
 この映画はこの写真を境にして違う構成で作られているのが面白いです。
 順を追って説明して行きましょう。
 胃のレントゲン写真の後に来るのが主人公が仕事をしている風景。
 その後ろにそびえ立つ、資料の山。
 象徴的な絵で印象に残ります、と同時にこの風景がお話の最後の伏線になっています。
 仕事をしている主人公は事務的に仕事を右から左に受け流しているような感じで、意見に来た人たち之話も受け流してしまう、この物語はそんなところから始まります。
 この作品は入口と出口が同じ所にあって、それが二枚の写真と一つの風景、そして歌だと思いました。
 まず癌に侵された主人公の胃のレントゲン写真から始まる物語。
 癌に侵されていることを知って狼狽する主人公が無為に生きる日々がつづられていくんですけど、主人公の表情を見せるカットが凄く多いんですよね。
 それがちょっとやり過ぎなんじゃないかなあと思うくらい、自分のことをしゃべろうとするんだけど、どもってどもって会話も進まず、ただただ悲しそうな主人公の顔が映る。
 劇中ゴンドラの唄を歌うシーンがあって、歌いながら静かに涙を流したりするんですが周りの人がどんどん引いて言っちゃう位で。
 でも、それがアクセントというか、映画を見ている中で付箋のような役割をもつ演出なんだなと最後まで見て感じました。
 この作品は演出が実に上手いなあと思わされるところが色々あって、中でも主人公が若い女性の一言で自分にもやればできる!っと心機一転するシーンがあって、主人公が階段を駆け下りて画面からはけていくんですが、階段の上をハッピーバースデーの歌を歌う人たちが囲んでいて、まるで主人公が生まれ変わったことを祝福しているように見えるんです。
 それは入れ替わりに階段を登ってきた女性に向けられた歌だと分かるんですけど、面白い演出ですよね。
 映画を見ている自分たちには、主人公のための歌にしか感じられない。
 主人公はそこから心機一転して、公園づくりにとりくむんですが、亡くなってしまう。
 そしてもう1枚の写真遺影から始まる、お葬式の様子。
 ここからは、お葬式に来た人たちの回想から心機一転してから亡くなるまでの主人公の様子が客観的に語られます。
 客観的な視点。
 どんな感じかというと、それまで、これでもかと写してきた主人公の顔のアップが少なくなって、遠くから見た姿だったり、シルエットで表情の分からない映像に段々なっていくんです。
 見ている時になるんですよね、この時どんな顔をしているんだろうって、おもわず想像してしまう。
 そして最後の最後、主人公が亡くなる直前を見ていた警官の回想で出来上がった公園で一人ブランコに乗っている、そして歌っているのはまたゴンドラの唄。
 映画を見ると分かるんですが、同じ唄なんだけど違う歌に聞こえるんですよね。
 涙を流しながら歌っていた歌が、嬉しそうに歌っている歌に変わる。
 もちろん、映画を見ている人にも、同じ歌が違ったものとして聞こえていると思います。
 歌を歌っている主人公の姿にカメラは少しづつ少しずつ近づいていくんですが、もう少しで表情がちゃんと分かるかな?と思うような所でカットが切り替わってまた主人公の遺影に画面が変わります。
 このシーンのはじめにも見た写真なんだけど、少し違って見える、この写真は笑っているのかもしれない・・・・・・・・・
 見ていてそんな風に思いました、あるいは想像してしまいます。
 主人公が自分の死期を知りながら最後まで公園を作ることに命をかけていたことを知って、お葬式に来ていた人たちはすごく盛り上がって、俺達も主人公のように変わろう!俺たちもやればできる!となるんですが、後日その人達が仕事をしている風景。
 この物語の最初の風景と同じ風景です。
 山のような資料を背に主人公と入れ替わって事務的に仕事をするお葬式に来た人たち、意見に来た人たちのことも受け流す、映画の最初の主人公のように。
 中の一人が意見しようとするんだけど、できない。
 ここが上手いなあと思うんですが、意見の出来なかった人は立ち上がって、何も言わずにまた座りなおしてしまうんですが、その姿が段々と資料の山の向こうに沈んでいくんです。
 物語はこの何もいえなかった人が主人公が作った公園を眺める所で終わります。
 何も変わらなかった、変わった主人公は特別だったんだろうか・・・・・・・・・? 
 この映画を見て面白かった所、それは映画と観客の関係です。 
 受け手である自分はお葬式までの描写で主人公に寄り添い、お葬式の後からは参列した人々と同じように、主人公の事を断片的な回想から想像します。
 そう想像するように誘導されていると感じました。
 それは最初にあった主人公の感情が、お葬式以後は空白になっているからです。
 今まであったものがなくなってしまった。それを想像で補って保管しようとする、そしてそういう想像をしていくために映画の所々に付箋を貼るように散りばめられた要素があるわけです。
 これでもかと映る主人公の顔、二枚の写真、一つの風景、そして歌。
 これらの要素が映画を見ていく中で違った意味を持つようになり、想像をしていく要素にもなる。
 うまい演出だなあと思いました。
 興味深いのは、この断片的な要素から主人公が心機一転して公園を作ろうとする姿、そしてその最後を想像するという姿勢がお葬式に参列している人々と同じだという所です。
 映画を見ていく中で自然と映画の登場人物と同じところに立たされてる。
 実にテクニカルな映画だなあと思います、そしてこの演出自体が映画のテーマと深く結びついているなと感じます。
 テーマと技術が卵と鶏のように密接な関係を持っている所が素晴らしいですね。
 そして、この映画を通して問いかけられているもの、それは主人公の生き様だけではなく変わらなかった人々の姿にもあると思います。
 何も変わらなかった、変わった主人公は特別だったんだろうか、じゃあこの映画を見ている君は・・・・・・・・・? 
 そういう映画だと思いました。
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by Yakeishi-ni-Mizu | 2012-08-06 01:15

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